スリランカでの暮らし
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私の人生の中で紅茶が、半日も欠かさない飲み物になったのは、スリランカで暮 らしてからです。
バブル期の日本を後にし、 やってきたスリランカ。 初めて空港に降り、迎えの車 に乗って自宅までの道のりを走る間、 窓から見る光景は驚き以外のなにものでもあ りませんでした。 かろうじて舗装された道路の脇には赤土が残り、振り返ってリア ガラスから外を見ると向こうが見えないほどに砂埃が巻き上がっています。
街で人通りのあるところを歩いてみると、 人が集まる場所には牛がいて、 「あれ は誰が飼っているの?」と尋ねると「ワイルド・カウ」 と答えが返ってきます。 ワイルド・ ドッグは野良犬のことだから、 野良牛ということかしら?となんとか理解し、 牛をよ けながら通りを歩きます。
このころは街を行き交う人の半分以上がまだ裸足で、 女性はみな髪が長く、 色と りどりの美しい配色のサリーをまとっていました。 線路は、 電車が来ないときには 隣町にいくための近道でした。 美しいサリー姿の女性が雨傘をさし、長いショール を揺らしながら楽しそうに線路を歩く姿に、 しばし見とれてしまったことを今でも思 い出します。
そんなスリランカで暮らすようになったのは、 夫が紅茶のプランテーションの経営に関わることになったからでした。
山の上に建つ、 昔の学校のような木造の、 四角い3階建の建物が紅茶工場です。
その周りを見渡す限りの茶畑が囲んでいて、 このすべての木を人が植えて、人が 摘んでいるとは信じがたいほどの広さです。
稼働している工場は細かな紅茶の粉が舞い、 目も鼻もむずむずします。 逃げる 場所を探すと、工場の一角にガラスで区切られ北側に大きな窓を持つ部屋があり ました。 そこだけが静かに整った雰囲気。 ティーテイスターのいる、 テイスティング ルームでした。
テーブルにはテイスティングカップと呼ばれる真っ白い茶器が一列に並べてあり、
お湯を沸かす大きなやかんと、口に含んだ紅茶液を吐き出すための真鍮の筒型容 器が置かれています。
眺めていると、製造されたばかりの原料紅茶をロットナンバーごとにテイスティン グしていきます。 これだけたくさん並べて味を見分けているの? なんだか不思議な ことをしているように見えます。 北側の大きな窓は、 カップの中の水色を見るため のものでした。 ティーテイスターが言います。
「保管状態のよいものは、 情報が多い。 保管状態の悪いものは、情報が少ないのだよ」
いろいろと教えようとしてくれますが、 さっぱりわからない私は、 所在なく出された紅茶を1人静かに飲んでいました。
スリランカの暮らしが始まり、 街で日々の買い物をしなければならなくなりました。 電気が安定しない国、 食べ物はすぐに傷むので、 2日に1度の食料調達が欠かせ ません。
この時代のスリランカは、 スーパーマーケットが国に2軒しかありませんでした。
買い物はもっぱら青空市場です。
市場の中央の日の差し込むスペースでは鶏が元気に歩き回り、エサをついばん でいます。 並ぶ店は、 美しく積まれた色とりどりの野菜や果物であふれ返り、色合 わせの妙を感じる美的センスはサリーの色柄を思わせます。
その日は鶏肉を買いたいと見て回っていましたが、 冷蔵庫のある肉屋が見つか らず、通りかかった靴屋のご主人に「チキンはどこかしら?」と尋ねました。 するとこ う言葉が返ってきました。
「ちょっと待って。 20分後だ」
靴屋の主人は広場の真ん中にいる男性に、 何か大声で告げています。 ほかで 買い物をした後に靴屋に戻ると、その主人に 「出来たよ」と言われて差し出された のが鶏肉でした。
包みを受け取って思わず手を引っ込めそうになった私。 なんとその肉の塊は温 かく、 それが鶏の体温であることがすぐにわかりました。 気を失いそうになるのを 必死にこらえて、 なんとか駐車場の自分の車に戻りました。
どうやって家に帰ったのか覚えていないほどの衝撃的な鶏肉との出合い。 きち んと食べてあげなくてはと思いながらも、 冷蔵庫を開ける手が震えました。
後から冷静になって考えて、注文するとその場で鶏をさばいて鶏肉にしてくれる システムなのだと理解しました。 ということは、 私があのとき受け取った鶏肉は、広 場を闊歩していた、 あの鶏なんだわ! と事態を飲み込むのがやっとでした。
翌週、また鶏肉を買いたいと思ったのですが、やはり注文の仕方がわからず、結 局靴屋の主人に頼むことに。それからしばらくの間、私は靴屋で鶏肉を買うことに なるのでした。
スーパーマーケットがないと、 売り物に定価がないことに気がつきます。青空市 場で私に告げられる物の値段は、いつも現地の人と違いました。 その違いが悲し くて、 英語を話す果物屋の主人にいつまでたっても地元の人と同じ値段で野菜や 果物を買えないと話したら、「シンハラ語を覚えたらいい」とアドバイスしてくれまし た。
英語すらままならない私は、地元の言葉に取り組むことを後回しにしていたので すが、 街に出ればすべての人がシンハラ語の先生です。 店先のあちこちに教えて くれる先生を見つけては、レッスンを始めました。 片言のシンハラ語を話し出した 私に、皆さんが喜んで話し相手になってくれました。
スリランカの暮らしはこうして、 全てが手探りから始まりました。 今のようにイン
ターネットやスマートフォンもありません。 新聞やテレビの情報も外国人に親切な ものは乏しく、手元にあるのは旅行雑誌が1冊だけです。 生活に必要な情報は、 街に出て自分の目と耳で得なければなりませんでした。
環境は全てが日本と比較にならない状態で、 水道から出る水は、 残念ながら安 心できるものではありません。 自動販売機などありませんし、ペットボトルの水は身 近では売っていません。 飲み水は水道から得るしかなく、 よって煮沸することが必 須です。
煮沸して濾過して飲む安全な飲み物、 それが紅茶でした。
紅茶は、スリランカの暮らしの中に必然としてありました。 1日が紅茶で始まり紅 茶で終わる暮らしは、 すぐに私の生活習慣となりました。 紅茶は身近にありました し、ローカルティーと言ってオークションにかからない、地元で出回る紅茶もあります。
しかしまだこのころの私は、いずれ自分がティーブレンダーの仕事をすることに なるとは思いもよりませんでした。